地獄の門のアリス

※警告

この投書は、あなたの気分を害する恐れがあります。
随分と可愛らしいお客さんが来たものだ。
店員がいらっしゃいませ、って言っただけでなんていう反応をするのか。
何をそんなに怯える必要があるのか、私には分からない。
客商売というものは、売り手が客に対してヘコヘコ頭を下げてやるのが道理だというのに。
それとも何か?このお客さんはそんな年齢で、商売っていうのが誰かが利を得ている以上形式のある詐欺行為だという事を認識してしまっているのか。
まるで虎穴に仔を盗りにきたような戦慄した表情をしている。
いや、私の思い過ごしというものなのか?
単にここが自分の来るようなところではないのを自覚しているか、もしくは、扉を開いた後の光景が予想を裏切ったか・・・さて、何を頼みに来たのか?

凄い凄いと周りに言われている彼は無表情だ。
平均点が35点、つまりこのクラスの半数以上は赤点。
そんな中で抜きん出た点数のついたテストを受け取ったにも関わらず、全く嬉しそうじゃない。
別に、点数を自慢したり、100点ではなかった事を悔やんで愚痴るような相手が居ないんじゃない。
彼は人気者。この前の学校祭の時は地味な裏方を率先して頑張っていたし、それを回りも評価した。
顔立ちだって悪くない。私服のセンスも良い。ケンカになったって、彼は相手を傷つける事無く倒す術を持っている。
本人がそういう闘争を好まない事を部活動の顧問はちょっと残念そうに言うのを聞いた事があるけど。
彼は彼なりに頑張っている。回りもそれを言われなくても認めている。私だってそう。
でも、何か、誰もが引っかかる、何かがある。上手く説明できない、違和感。
ちなみに、私の答案は43点だった・・・数学なんてなくなっちゃえばいいのに!

私はボーイにメニューを下げさせた。お客さんが未成年だからだ。
割と大人びてはいるし体格も良い。しかし若さが見て取れるものでもある。
何より、その学生服。通称カス学と呼ばれるような低脳の巣窟のものではなく、良くも悪くも無いと評判の平凡な学校のものだ。
靴は生意気にも高級ブランドの革靴、私の目がまだそれなりのものであれば、5万や6万は下るまい。
お坊ちゃん、ここに何を求めてきた。
メニューの無いテーブルの向かいに腰掛けて、何にしますか?と問えば何と返って来るか?

彼と会ってから1年と半年くらいで、ようやくその違和感に触れる機会が出来た。
彼は、飽きている。その対象が余りにも多岐に渡っていて、何に対してなのか、また上手く説明が出来ない。抽象的だけど、それは、全て。
ある日、とあるアーティストの廃盤になってしまったディスクをクラスメートが持ってきた。
インターネットのオークションで、7万円を出してようやく落札出来たと言っていた。
私達の間で、そんなにメジャーではないそのアーティストはとても人気があった。
誰もがいいな、いいな、と声を揃えていた。彼もまた、よく落札したね、なんて言ってた、なのに

「つまり君は学校の授業が退屈なのかな?」
「違います」
お客さんは私の指摘がお気に召さなかったようで。
中二病の重傷患者なのかと思わせられた。中二病なんて珍しいものじゃない。
むしろ、かからない人間の方が少数派なものだ。
お客さんは自我を他人に変な形で押し付けたりするような、そういうところは既に卒業しているように見える。
もっとも、そういう症状は大人でも少なくないのだから、精神的には成熟しきっているようにすら見える。
「周りのレベルの低さに失望してしまっているのかな?」
この問いかけに、お客さんは少し黙ってしまう。つまり、私が余りにも的外れな発言をするものだから、私に対しても失望してしまったか?やれやれ、他人が何を考えているか、正確に答えられる人間なんてこの世界には誰一人としていないのだ。
そんな事くらいお客さんなら分かっているんじゃないのかね。もしくは・・・当たらずとも遠からずというところだね。
「意味が、分かんないんです」

放課後の教室に二人きり。
ううん、正確には二人じゃない。後ろの引き戸の影に私の友達が二人隠れてる。ベランダにも一人。誰かは分からない。
うわ、こんな時にメールなんて送ってこないでよ、何が頑張れ頑張れだ、何を頑張れと!
彼とお喋りを楽しみながら少しずつ時間が経っちゃって、あ、もしかしたら、楽しんでるのは私だけなのかな、なんて思っちゃったりしてたとき、今日クラスメートが持ってきたディスクの話になって。ああもう、そんなのどうでもいいのに!
「7万円の価値あるかな、あれ」
私はその発言に「え?」って問い返さざるを得なかった。
だって、あんなにみんな欲しがってるのに。
彼はチョークを手に取って、黒板に檸檬という字を書いた。字綺麗だな・・・
「これ読める?」
「レモンでしょ?」
「こう書けば早いよね」
彼は黒板に今度はカタカナで書いた。
彼は、クラスメートが頑張って落札してきたって言ってたアレ、無駄だって言いたいのを示唆してる。でも、どうして?それなら高いよって言えばいいのに。

彼が言っているのは、授業内容が分からないという意味ではないのを察するのは容易だった。
彼の答案に書かれた文字はとても美しかったし、公式もしっかり暗記していて、用途も完璧なのが途中式からも見て取れた。最後の問題だけは先生が余程の意地悪だとしか思えないものだったが、それでも8点中6点が与えられている。
「どうして、こんなことを覚えなくてはいけないのか、分からない」
「そうです」
「テストで良い成績を残すため、では不満かね?」
「テストの点数は何の意味があるんですか?」
「評定に関わる。良い大学へ進みたいのなら」
「良い大学へ行く必要はありますか?」
もう彼が何に迷っているのかは明白だった。

結局肝心な事は何も言い出せなくて、すっかり暗くなってしまった道を歩く。
でも、この帰り道が一人で歩くものじゃなかったから、私はそれはそれで結構嬉しかったりするんだけど、5分に1回くらい携帯電話を橋の下の川へ投げ込んでしまいたくなる・・・だから頑張れって何を!
すっかり頭の中がふわふわしちゃってて、気付くのが遅くなったけど、まだ春って言っても3月だから、夕方はまだまだ寒くて、気付いたら急に寒いって思えてきて。
息も白かったりして。気付かなきゃ良かった!

どん。

どん?
前を歩いていた彼にぶつかって、私は一瞬何が起きたのか分からなくて、とりあえずごめんなさいって謝って、寒いねって言って、私もまだマフラーしてたのに、彼が自分のマフラーをとって私に巻いてくれて、よく分からない。
こんなところで、どうして立ち止まっちゃったのか分からないし、なんでこんな寒いのに、川に飛び込んじゃったのか、分からない。どうして。

可愛らしいお客さんがまたいらっしゃった。
第一声が「死ねませんでした」だった。
この馬鹿、本当に飛び込んだのか。ボーイが今朝慌てていたのはこのせいか。
ちゃんと話を聞いておけばよかった、いや、大した問題じゃない。
「ははは、本当に飛び込みましたか」
私の言葉にお客さんは初めて笑ってくれた。
彼は聞いてもないことまで細かく話してくれた。
あれが走馬灯って奴なんですね、とか。マジで冷たかった!とか。何をほざいていやがる。
客じゃなかったら二、三発くれてやるところだ。
だが、彼はもうあんな冷たいのは嫌だと言った。そう、それで良い。
下が水じゃなくてコンクリートだったりして死に損ねたらもっともっと強烈に痛いはずだ。
「こういうのはなるべく、先延ばしにするべきなのですよ」
「身をもって経験しました、親父に殴られたのも痛かったです」
「その為に何か暇潰しに学ぶのも良いんじゃないかね」

彼は一日学校を休んじゃったけど、ピンピンしてて、体育の授業も何時も通りに活躍してた。人の気も知らないで・・・思いっきりお説教したいところだったけど、目撃してたのが私たち三人だけだったので、わざわざ蒸し返すのもって思っちゃって。
私があんまり思い出したくないだけっていうのもあるけど。
とにかく、マフラーを返さなくちゃいけないから、一緒に帰る口実がある、それだけでもなんだかふわふわできた。それなのにこの二人は、なんでこう突撃しか知らないの・・・

「マスター」
「何だ」
「ホントに無料で返してよかったんスか?」
「いや、マジで飛び込むとか思わなかったから」